こんにちは、成長くんです。
今回は「最高の人生とは何か」について話していきます。
みなさん自分にとっての最高の人生を考えたことはありますか?
個人によって「最高の人生」の定義は違うものです。
今回は僕の最高の人生論を話していこうと思います。
哲学的な話になりますがご了承ください。
人生とは何か、生きるとは何か
最高の人生を語る前に、そもそも人生とは何か、生きるとは何かについて考える必要があると思ったので、先に話していきたいと思う。
私はイェール大学のシェリー・ケイガン氏の考えに圧倒され、そこから死について考え自分なりの人生論を見つけました。
私は、シェリー氏の考えに出会うまでは
人生とはある瞬間に地球上に誕生してから地球上から存在を消すまで
を人生と考えていた。
それがシェリー氏の考えを知ることで人生とは、生きるとは何かについての考えを深めることにつながりました。
死の定義
人生とは生まれてから死ぬまでのことを言うだろう、僕もそんなふうに思っていた。
しかし、ある一冊の本に出会ってから考えが変わった、と言うより鮮明になりました。
イェール大学のシェリー・ケイガン氏の
「「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義」
この本だ。
まとめの下に参考文献として記載するので興味がある方はぜひ読んでほしい。
この本を読んで僕の考えはこのように変わった。
「他人の死は「身体」が死んだ時に死んでしまい、逆に私自身が死ぬときは「人格」が喪失したときに死ぬ」
このように思いたい。
ここで思いたいと言ったのは、すごく都合のいい話だと思うが僕は研究者でもないからそれでいいと考えている。
私が「人格」を失った時が自分自身の死だ、と語ったのは簡単な話で、自分の人格がなくなっても存在し続けたいのかを考えた時に私の答えはNOだった。
健康に長生きをするというテーマを掲げていた僕は、肉体の存在年数を伸ばしたいわけではなく、人格がありながらも自由に動かせる肉体が存在する年数を伸ばしたいと言うことであることに気づいた。
自分が生きるとは何か、どちらかと言うといつ死ぬのかについての答えは先ほど述べたものだが、他人が生きるという観点になるとまた違う。
僕は他人には人格が死んでもなお、身体が生きているなら生きていると思いたい。
考えてみれば簡単で、大事な人(家族や友人、恋人)の人格が喪失した時、身体は生きているのに死んでいるなんて思いたくない。
大事なものはできるだけ長く保有したいものだしあまりにも悲しすぎる。
だから私は他人の人格が死んだと思った時も身体が生きていれば生きていると言いたい。
私は死ぬことの悪い側面は、これから体験できたであろうことを体験できなくなること、略奪説を信じることにしている。
死ぬことはこれからできたであろう体験の数々を奪ってしまうから悪い、だけど人は死ぬ。
話が少し逸れてしまったが、人生とは生まれてから死ぬまでであり、人格がなくなるまでを人生と考える。
最高の人生とは
私が思う最高の人生とは、価値観を満たした行動をとり続けた人生であると考える。
この結論には次の5つの考えが影響している。
- 人間は適応する生き物である
- ネガティブ感情とポジティブ感情は何をしてもやってくる
- 将来のための行動しかしないのは勿体無い
- 時間は有限であり時間はトレードオフになる
- 合理的と道徳的どっちを取る?
人間は適応する生き物である
「価値観を満たした行動をとり続けた人生が最高の人生である」
を最高の人生として考えるのは人間が適応する生き物であることが前提になっている。
僕は以前楽しいこと、好きなことをし続けることこそが最高の人生を実現できると思っていたのだが、それが不可能であると言うことを知った。
これには進化の過程で人間が得た能力である適応能力が関係していることがわかった。
人間は順応する、つまり慣れていくのだ。
カツ丼が好きなAさんがいたとしよう。
Aさんはカツ丼が好きなので幸せに暮らすために毎食カツ丼を食べることにしたとする。
初めのうちはいいだろうが嫌気が指すのは時間の問題だと思う。
このように徐々に満足度が下がっていくことを限界効用逓減の法則という。
脳は一定の報酬を繰り返し受け取るとその効用は次第に減少していくようにできている。
好きなことをし続ける人生も悪くはないが好きなこともやりすぎると好きじゃなくなってしまう。
じゃあなんで好きなことをやり続ける人が幸せそうに生きているのかを考えた。
その結論が
「好きなことをやり続けている人は、好きじゃないことを何かしらやることによって落差を作りポジティブな感情を作っているのではないか」
この結論によるとあえてきついことを選ぶことによりより幸せを感じれることになる。
私は人間は適応する生き物であるため、落差をつけさえすれば好きじゃないことでも幸せを感じれるのではないかと結論づけた。
これをヘーゲルの弁証法というらしい。
ヘーゲルの弁証法が本当だとしたら、私は将来の自分が喜ぶであろう行動を積み重ねたいという風に思っている。
ネガティブ感情とポジティブ感情は何をしてもやってくる
「価値観を満たした行動をとり続けた人生が最高の人生である」
を最高の人生と定義したのはネガティブ感情とポジティブ感情は行動と関係なしにやってくるという考えがあるからだ。
特に日本人は不安を感じやすいと言われるS型遺伝子の保有確立が高い。
日本人がS型遺伝子の保有確立が高いのは、地震や津波、火山や台風などの自然災害が多い島国であるのがその理由ではないかと言われている。
この不安は人間が生存し繁栄するために必要な要素だったために存在していると考えられる。
不安を感じなければ、危険を避けることができないし、適応することもできない。
不安を感じなければ何も対策をすることができないのだ。
だが過度に不安な感情を感じるのも問題だろう。
私は「感情の波理論」を信じている。
感情は波のように出てきては去っていくこれの繰り返しである、という理論だ。
不安の数は減らせるがなくすことは不可能だ。
なので不安から逃げてもなお不安は襲ってくることになる。
不安から逃げるためにポジティブを追い求めるために行動をするのは勿体無いと私は考えている。
だから私は将来の自分が喜ぶ行動を取り続けたいと思っている。
将来のための行動しかしないは勿体無い
私は好きなことをしつづけてもネガティブな感情が同じようにやってくるのであれば、
短期的に不快な気持ちや体験を受け入れて長期的な行動しか取りたくないと考えたことがある。
今思えば極端でしかない、二分法思考と呼ばれる思考に囚われていた。
今この瞬間は今しか味わうことができない。二度と戻らない時間だ。
それは十分わかっている。
今の積み重ねが将来を作る。過去の積み重ねが今を作っている。
将来大きなものを成し遂げたいなら積み重ねが必要だ。
これもわかる。
以前の僕はここで極端に将来のために、今努力できなければ何も変えられない、
という焦りから今を楽しむことを捨てて将来のための行動に投資を続けていた。
成功するためには不快な感情や出来事を人よりも受け入れないといけないと。
ただここで考慮しないといけない点がある。
いつ死ぬかわからないという点だ。
将来のニーズを満たすために努力をし続けたとして、その途中で死んだ時に最高の人生だったといえるだろうか。
僕はこれまでそう言ってきたが、それは勿体無いと思えてきた。
これともう一つ考慮しないといけないのは、時間は決して戻らないという点だ。
僕が毎日努力を積み重ねてようやく成功をしたとしよう、
その時が100歳で時間も一生困らないお金も手に入ったとする。
僕はどう思うだろうか、大事な家族や友人はほとんどいない可能性が高い。
将来のニーズを満たすことだけを考えたらいつまで経っても今のニーズを満たすことができない。
快楽のふみぐるまのような未来のふみぐるま状態になってしまう。
こう考えると今のニーズを満たすことが大事だとわかる。
そしたら今のニーズを満たすだけの人生はどうだろう。
間違いなく急に死んだとしても後悔の量は減らせると思う。
ただ将来のための自己投資を全くしなかったら明日の自分の状況は今日から前進することはない。
ただ体が老化するだけで寿命に近づくだけだ。
お金で考えるとすごくわかりやすい。
今日を楽しむために給料を全部使ってしまったら明日からの自分はそのお金を使うことができない。
逆にそのお金を30年間インデックスファンドに投資したら何倍にもなって将来の自分は喜ぶことになるだろう。
この考えから今のニーズを満たすために全てのリソースを費やすのもリスクがある。
今のニーズと将来のニーズのどちらも満たすことができるのであればそれがいいに決まっている。
なんだってバランスが必要だ。
時間は有限であり時間はトレードオフになる
「価値観を満たした行動をとり続けた人生が最高の人生である」
を最高の人生として考えるのは、時間は有限であり時間はトレードオフになるという考えも影響している。
有限なのは時間だけではない、ほとんど全てのリソースは有限であると考えることができる。
個人が持つリソースには、時間、お金、労力が上げられる。
Aさんは、明日家族とディズニーランドに行くという選択をしたとする。
家族と明日ディズニーランドに行くという選択をしたということはとても素晴らしいことだが、
忘れてはいけないのはその時間を他のことに使えたということだ
Aさんは家族と明日ディズニーランドに行くという選択をしなかったら、
一日中読書をして将来必要な知識が手に入ったかもしれない。
友人と遊んで一生に一度の体験ができたかもしれない。
このように何かを選ぶということは、その時間、お金、労力があればできたであろう他の全ての選択肢を捨てていることを理解しないといけない。
何かを選ぶときには何かを選ばないことを選ばないといけない。
合理的と道徳的どっちを取る?
合理的と道徳的の問題は生きていく上では必ずぶち当たるだろう。
大事なリソースを将来の自分と今の自分のどっちものニーズを満たせる選択に使ったとしよう。
その選択肢があればすごく合理的なので是非ともその選択をするべきだと思う。
だがここに道徳的にどうか。という要素が入ってくるからまた難しくさせる。
道徳的とは何か、
道徳を倫理的に善良な価値観や行動としよう。
倫理的にとは何か、これって誰にとって善良な行動なのかという話になる。
この社会全体を見たときに道徳とは、お金持ちや権力を持っている人に有利なように作られているのではないかと考える。
会社に1時間前に着くのが道徳的に正しいという人がいる。
この考え方をしたときに誰かにとって善良でなければ道徳的とは言わないだろう。
この考えで得をするのは会社の上層部の人間に他ならない。
間違っても1時間前に来ることを強要されているその人のためではないはずだ。
その人は自分の有限の時間を奪われている。
これが道徳的に正しいのか?
それを強要したら法律に違反をすることになる。
1時間前に来ないからと言って態度を変えるようならその人は国のルールを破っているにもかかわらず、自分の思い通りに行かないなら冷たい態度を取る。
これが道徳的に正しいわけがない。
道徳というのは相手の視点を排除した考えに他ならない。
道徳的に正しいと言われていることは少し疑ってかかるくらいがちょうどいいのかもしれない。
ただ道徳的行動をしないことで不快に思う人たちが一定数いることになる。
その影響を自分が受けることになることもある。
この不快な気持ちの人が出てくるとわかっていて道徳的行動を無くすのは相手も損するが、自分もその後のその人の行動や言動を受け入れないといけない。
自分のリソースを犠牲にしすぎない範囲であれば道徳的行動を受け入れることが合理的な意見になりうるということを頭に入れとくのも悪くはない。
私はこれからも合理的と道徳的のバランスをとっていこうと思う。
価値観を満たした行動をすることで未来と現在のバランスが取れる
ここまで私が
「価値観を満たした行動をとり続けた人生が最高の人生である」
という考えに必要だった考えを述べてきた。
- 人間は適応する生き物である
- ネガティブ感情とポジティブ感情は何をしてもやってくる
- 将来のための行動しかしないのは勿体無い
- 時間は有限であり時間はトレードオフになる
- 合理的と道徳的どっちを取るか
この5つの考えを踏まえた上で私はこのように考えました。
最高の人生を感じたいのは、これから全ての瞬間瞬間と死ぬ前だろう。
ただし、幸せを感じるためには幸せじゃないことを経験しないと幅がない分幸せを感じることができない。
時間などのリソースは有限であり、なんでもできるわけじゃない。
これらの考えを考慮したときに最高の人生とは、
「価値観を満たした行動をとり続けた人生である」
という答えに行きつきました。
価値観を満たした行動をとり続けると、
瞬間的にネガティブな感情に苛まれることはあるが、後々振り返る時の後悔を減らすことができる。
時間などのリソースは自分の大事にしているものに対して使っていることになる。
価値観を満たした行動であればいつ死んでも後悔は最少だろうし、長期的にみても幸福度が高いと思われる。
この理由から、最高の人生とは
「価値観を満たした行動をとり続けた人生である」
と結論づけました。
価値観がわからないという方は、
このあたりをご覧ください。
「価値観を満たした行動をとり続けた人生である」
という考えに賛同した方がいましたら、自分のビジョンや価値観を明確にするところから始めてみてはいかがでしょうか。
きっと今より一歩前に進めるはずです。
まとめ
今回は私なりの現時点での最高の人生についてご紹介させていただきました。
最高の人生を語る前に人生とは何?
というところを少しだけご紹介し、その後に最高の人生とは「価値観を満たした行動をとり続けた人生である」という答えに至るまでに必要だった考え方をご紹介しました。
以下の5つがその考えです。
- 人間は適応する生き物である
- ネガティブ感情とポジティブ感情は何をしてもやってくる
- 将来のための行動しかしないのは勿体無い
- 時間は有限であり時間はトレードオフになる
- 合理的と道徳的
価値観を満たした行動をとり続けることができれば、その瞬間の自分も死ぬ前の自分も後悔を持つのは最小になるだろうという結論に行きつきました。
これはあくまで私なりの最高の人生観なので皆さんも自分の人生観を見つけてみてください。
参考文献
イェール大学教授シェリー・ケーガン(2018)『DEATH イェール大学で23年連続の人気講義 「死」とは何か [完全翻訳版] (柴田裕之訳) 文響者。